はじめに:修復とは再発見である
美術作品の修復とは、単なる保存行為ではありません。それは、過去の技術と思想を読み解いて作品の本質を再発見する作業であり、文化資産としての再定義する過程でもあります。とりわけ、国家的アイコンとも言える芸術作品においては、その修復は美術史的・技術的・社会的・経済的な意味を持つ複合的なプロセスとなります。
2025年9月にアントワープ王立美術館で行った17世紀フランドル絵画の巨匠、ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577–1640)の作品の修復が終わりました。
左)修復前 → 右)修復後 |
彼の《聖人たちに崇拝される玉座の聖母(Madonna Enthroned Adored by Saints)》は、1628年にアントワープのアウグスティヌス教会の主祭壇画として描かれたもので、高さ6メートルを超えるキャンバスに描かれた大作です。
しかし、長年にわたる経年劣化、過去の修復による顔料の変質、ワニスの黄変などにより、作品本来の色彩や筆致は覆い隠されていました。
上部)ワニスを除去して明るい色彩があらわれた部分 下部)画面を覆う黄色に変色したワニスによって、色彩が重く濁っている部分 |
絵の具が剥がれ落ちた部分が波打った白い筋のように見える
この作品を所蔵しているアントワープ王立美術館(KMSKA)は2023年から2年間をかけてこの作品の大規模な修復作業を行うことで鮮やかな色彩とダイナミックな構図がよみがえらせ、作品本来の姿を取り戻しました。
ここでは、KMSKAが修復プロセスの公開性した展示戦略と、現在では修復が物理保存以上の意義をもつことについて書いていこうと思います。
修復の公開性と展示戦略──修復を「見せる」ことの意味
スタジオ・ルーベンス
スタジオ・ルーベンスは、KMSKAが主導する美術修復・研究・展示の統合プロジェクトです。従来の修復が「裏方の作業」として美術館のバックヤードで行われていたのに対し、本プロジェクトでは修復のプロセスそのものを展示コンテンツとして公開するというアプローチが採用されました。
このプロジェクトに選ばれ、修復されたのが《聖人たちに崇拝される玉座の聖母》です。
展示戦略
スタジオ・ルーベンスの特徴として修復のプロセスそのものが展示コンテンツとして活用されたことが挙げられます。
KMSKAでは以下のような展示戦略が採用されました:
・修復場所の選定:ルーベンスの他作品が並ぶ展示室内に修復スペースを設置。
・比較展示の導入:修復前後の高精細画像、赤外線撮影による下絵の可視化などを併設し、修復の意義を視覚的に理解できる構成。
・インタラクティブ解説:タッチパネルやAR技術を用いて、絵画の各層構造や顔料分析の結果を体験的に学べる仕組みを導入。
・修復家の声を伝える:映像インタビューや作業記録を通じて、修復に携わった専門家の思考と技術を伝える。
本作の下書きや参考になる作品を掲載した大きな本。 |
画面を覆う汚れの除去の仕方を説明したもの。 |
汚れをぬぐって茶色くなったコットン |
本日の作業のお知らせ。この日は画面を覆うワニスの除去を行っている。 |
このような展示戦略は、作品を「鑑賞する対象」から「理解する対象」へと変容させ、美術館を知的体験の場へと進化させます。
スタジオ・ルーベンスでは修復室と鑑賞者との間にはガラスなどの遮蔽物はありません。棚で空間を緩やかに区切っているだけなので、修復の緊張感を肌で直接感じることができます。
また、その棚の上に修復に関する情報を提供することで、修復家が鑑賞者からの質問等で作業を中断することなく作業を続けることができるようになっています。
公開性のバランス
オランダのアムステルダム国立美術館とマウリッツハイス美術館でも公開修復が行われています。
▼アムステルダム国立美術館、レンブラント《夜警》の修復室
反射した光が映り込んでいることで、カメラと作品の間にガラスがあることがわかってもらえると思う。 |
上記のように、オランダのアムステルダム国立美術館とマウリッツハイス美術館でも展示室内での公開修復が行われているが、いずれもガラス張りの特設修復室が設けられています。これに対し、KMSKAでは修復家と鑑賞者の間に物理的な遮蔽物を設けず、空間の緊張感を共有する設計が採用しています。
この違いは、修復の「見せ方」に対する思想の差異を示しています。ガラス越しの修復は安全性と効率性を重視する一方、KMSKAの設計は修復を「対話の場」として捉え、鑑賞者の知的関与を促すものとなっています。
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鑑賞者は修復作業の邪魔にならないように静かに見守る。 |
修復と文化政策──国家資産としての美術館コレクション
修復によって作品の芸術的価値が高まることは、美術館のコレクション全体の評価にも直結します。とりわけ、修復の「公開性」が美術館の教育的・社会的役割を拡張し、国家の文化資産としての価値を高める重要な要素となっています。修復とは単なる保存行為ではなく、文化的・経済的・象徴的な意味を持つ再評価のプロセスでもあります。
修復された作品は学術的な研究対象としての価値が高まるだけでなく、美術市場における評価も向上し、美術館の資産価値を押し上げる効果をもたらします。さらに、話題性のある修復プロジェクトは国際的な注目を集め、来館者数の増加や観光収益の向上につながるなど地域経済にも波及効果をもたらします。
加えて、美術館が保有する作品は国家の文化的アイデンティティを象徴する「無形の資産」として位置づけられており、修復によってその歴史的・芸術的価値が再定義されることで国家的文化資産としての強度が高まります。
ベルギーにとって、ルーベンスは単なる画家ではなく、国家ブランドの一部です。彼の作品の修復は作品保存を超えて、美術館の社会的使命や国の文化政策の中核を担い、国際的な文化資産としての地位を高めることにつながると考えられます。
経済的波及効果と民間支援
修復された作品は美術市場における評価も向上し、美術館の資産価値を押し上げる効果をもたらします。さらに、話題性のある修復プロジェクトは国際的な注目を集めて来館者数の増加や観光収益の向上につながるなど地域経済にも波及効果をもたらします。今回のルーベンス・プロジェクトは2027年のルーベンス生誕450周年に向けての宣伝効果も期待できます。
KMSKAではStudio Rubensに数百万ユーロ規模の予算が確保され、政府助成に加えて地元財団(例:Fonds Baillet Latour)や企業との連携による民間支援も充実しています。展示室には支援団体のロゴが掲げられ、修復が国家的プロジェクトであることが明示されています。
スタジオ・ルーベンスに助成した団体のロゴが作品の両脇の幟に表示されている。 |
このように、修復は単なる保存作業ではなく、文化資本の再構築と国家ブランドの発信を担う戦略的な営みでもあることが浮かび上がります。
おわりに:広がる修復の意義
現在、修復は単なる芸術作品の物理的保存を超え、美術館の社会的使命を拡大する重要な契機となっています。公開修復という展示戦略は、専門家の高度な技術を透明にし、鑑賞者との知的な対話を生み出すことで美術館を単なる「見る場」から「学び、感じ、考える場」へと変貌させます。
さらに、修復によって作品の学術的・市場的価値が高まることは美術館の資産価値の向上に直結し、文化政策と経済政策の両面で戦略的資源として機能します。とくにルーベンスのような国家的アイコンの修復は国際的な文化的影響力を強化する強力な手段となります。
美術館の壁に静かに佇む一枚の絵画は、修復を経て、ルーベンスのメッセージを鮮やかに、力強く語りかけます。ルーベンスの情熱と生命力が宿る色彩は、鑑賞者の心に深い感動を刻み込みます。
修復を終えたKMSKAのスタジオ・ルーベンスは、揺るぎない使命感のもと、さらなるルーベンスの作品を未来へとよみがえらせるため、休むことなく次の修復作業に取りかかっています。
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額を外され、修復作業を待つ作品 |
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