この家は1861年に建てられた、中産階級のための落ち着いた住居でした。美術教師であり画家でもあった父ホセ・ルイス・ブラスコと母マリア・ピカソ・ロペスは、1880年にここを借り受け、結婚後の新居としました。パブロはここで生まれ、家族の温かな日常に囲まれて、最初の三年間を過ごしたのです。
生まれた夜、彼は「死んだように静かだった」と伝えられています。しかし、叔父が葉巻の煙をそっと吹きかけたところ、ようやく力強い産声を上げたという逸話が残っています。また、幼いピカソが最初に発した言葉は「piz」だったそうです。これはスペイン語で「鉛筆(lápiz)」の幼児語でした。父ホセが画家だったこともあり、絵筆は彼にとって「おもちゃ」でありよく耳にする「言葉」でもあったのでしょう。
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| 左:父ホセ、中央:パブロ・ピカソ(1884年頃)、右:母マリア |
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| パブロ・ピカソと妹ローラ、1888年頃 |
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| パブロ・ピカソが洗礼式で着用したもの |
ピカソは10歳のとき、家族とともにラ・コルーニャへと移り住み、以後マラガに長く戻ることはありませんでした。しかし、彼の作品の随所には、故郷への静かなノスタルジアが常に漂っています。特に初期の素描や絵画には、マラガ時代に根ざした影響が、はっきりと見て取れます。
たとえば、父ホセが得意とした鳩のモチーフは、幼いパブロにとって最初期の重要な主題となりました。1890年頃の素描では、父の影響を色濃く受けつつも、すでに独自の線と感覚で鳩を描き分けています。これらの鳩は、後に戦後世界で「平和の鳩」として広く愛されることになりますが、その原型は、まさにこのマラガの家庭の中で静かに育まれたものだったのです。
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| José Ruiz Blasco, Dovecote, 1878 |
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| Congrès Congrès mondial des partisans de la Paix. Salle Pleyel, 20-21-22 et 23 avril 1949, Paris |
現在、生家は当時の生活を再現した空間となっています。ピンクのソファが置かれた居間、家族の肖像写真、父の画材。そして展示された初期の素描や手紙、ひとつひとつの家具。これらは単なる「遺物」ではなく、温かな「記憶」として今も息づいています。訪れる人は、20世紀を代表する巨匠としてのピカソではなく、ただの「パブロ少年」が家族に愛されながら過ごした日々を想像することができます。
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| 幼きパブロ少年 |
▶ピカソ生家博物館公式サイト
▶ピカソの「生まれ故郷マラガに美術館を作りたい」という願いをかなえたマラガ・ピカソ美術館
▶ピカソ美術館近くのバー・レストラン







